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2014年10月10日金曜日

憲法九条はノーベル平和賞に値しない-『帝国憲法の真実』


今日、ノーベル平和賞が発表され、マララ・ユスフザイさんに決まりました。マララさんは武装勢力による銃撃を乗り越え、女性の権利が制限されているイスラムの世界の中で、女性が教育を受ける権利を訴え続けてこられました。ノーベル平和賞は政治的な要素が強いと言われますが、西欧的価値観から見れば、大変素晴らしいことのように思えますが、イスラムの人々から見て、一体どのように写ったのか気になるところです。

でも、それ以上に気になったのは、憲法九条がノーベル平和賞の候補となり、しかも有力候補と報じられていたことです。もともとは、神奈川県の主婦らが中心となって運動をはじめ、ノーベル委員会へ推薦状を提出し、受理されたことがきっかけとなっています。

では戦後約70年間にわたって日本が他国と戦争をせずに平和でいられたのは憲法九条のおかげなのでしょうか?さらに言えば、今の日本国憲法は、本当世界に誇れるものなのでしょうか?

前者について言えば、日本が平和でいられたのは、日米安保条約によって日本がアメリカの庇護の下にあったからに過ぎません。平和を唱えているだけでは平和になりません。相手に脅威を感じさせるだけの抑止力を持ち、地域におけるパワーバランスが取れていてはじめて平和が維持できるのが現実ではないでしょうか?また、後者については、日本国憲法は、マッカーサーに指示に基づき、GHQがわずか1週間で原案を作成し、日本国政府はほとんど修正ができなかったばかりか、GHQのチェックがしやすいように、日本語を直訳調にしたと言われています。そのせいか、前文が本来であれば憲法の精神を格調高く謳い上げるものでなければならないのに、極めて不自然な日本語になっています。

本格的な憲法学の本は、ほとんど左翼思想に毒されていますので、保守の立場で書かれた読みやすい本として、倉山満氏の『帝国憲法の真実』をお勧めします。


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2014年10月5日日曜日

選択肢は多い方が良いのか?-『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』



この本の著者であるシーナ・アイエンガーさんは盲目でありながらコロンビア大学ビジネススクールの教授だということで日本でも大変話題になった方ですが、この本は、そんな著者の特性とは関係なく面白く示唆の富んだ本だったと思います。

私達は生きている以上、日常の小さな行動から人生における大きな決断まで、様々な選択を行っている言えます。この本はその選択という行動を科学的に解明したものです。

選択肢が多ければ多いほど選択の幅が広がり良いことのように思われますし、ある行動を人から強制されるよりも自ら選んだ方が幸せと考えがちです。しかし、この本で明らかにしていることは、育った環境によっても選択に関する捉え方が異なるし、また過大な選択肢はむしろマイナスに作用するということです。

一般にアジア系民族は集団主義であり、アングロサクソン系民族は個人主義だと言われます。紹介されている実験結果でも、アジア系子供は、例えば母親が選んだものを重視し、アングロサクソン系の子供は自分が選んだものを重視するとなっています。

一方、ジャムの実験では、余りにも選択肢が多いと購買行動につながらず、選択肢を限定する方がむしろ購買行動につながりやすいという結果が出ています。また、旧東ドイツの人々は、ベルリンの壁崩壊直後は自由を歓迎していたものの、次第に資本主義社会のもとでは確かに一見選択肢が広がったように見えても、同時に格差も広がったため、昔の方が良かったと考え、しかも同種の商品の選択肢が増えることをあまり評価していないという逸話も紹介されています。

さらに、重い結果を伴う選択は、大きな代償を伴うという例も紹介されています。助かる見込みのない子供の延命治療を続けるか止めるかという選択を、親がする場合と医者に委ねられる場合とでは、その後の親の精神状態に与える影響が大きく異なり、親が延命治療を止める選択をした場合の方が長く悲しみを引きずると言います。そういう意味では、選択のための情報は必要でも、本当に重い選択は専門家などの第三者に委ねる方が良いのかもしれません。この問題は、今後高齢化社会が進む中で、安楽死の議論にもつながってくるでしょう。


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2014年9月29日月曜日

大衆化社会に警鐘を鳴らす-『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』


小泉総理による郵政選挙や民主党による事業仕分けなどは劇場型政治の典型的な例ですが、今振り返るとあの熱狂は何だったのだろうと思います。郵政民営化ってそこまでやるほど重要なことなのか、民主党のマニュフェストには財源の裏付けのないじゃないか、そんなことを言ってみても、連日のマスコミの報道とそれに煽動された国民の声の大きさの前では無力でした。この国がどんどんおかしくなっていくことに危機感を覚えながらも、逆にとことん悪くなればさすがにどこかでおかしさに気付くだろうと一縷の望みを持っていたところ、安倍政権が誕生してくれたことに安堵しました。

今の選挙は小選挙区制の下、いわゆるB層に対して以下に働きかけるかというある種のマーケティング戦略が重視されています。とにかく一番にならないと選挙に当選しないわけですから、難しい問題をまじめに議論するよりも、問題を単純化し、有権者の感情に訴えかけることがより重要となりますし、さらに言えば、主張している内容より、誰が言っているかの方が重要だったりします。本書ではB層とはマスコミの報道に流されやすい「比較的IQの低い人たち」とされていますが、このB層の拡大によって政治はもとより、芸術や料理などの分野でも「本物」が駆逐され、大衆化が進んでいることに警鐘を鳴らしています。

テレビではコメンテーターと称してその道のプロではなく芸能人がもっともらしくコメントしたり、内容に関係なくテレビや雑誌で取り上げられた店が名店になったり、書店には時流に乗ったテーマの本が氾濫していたりと、プロの価値が低下し、本物のわかる人が減っています。そうなると本物が育たない社会になってしまいます。

現在は民主主義が最良の政治形態だとされていますが、チャーチルの皮肉を引用するまでもなく、B層が支配する大衆社会が最良とは言えないでしょう。選挙の度にブームが起きるようでは、長期的な国家ビジョンを持つことができず、大衆迎合的な政策を乱発することになりかねません。民意が常に正しいとは限りません。しかし民主主義は民意が正しいという擬制の上に成り立っています。最も民主的な政治体制だったと言われるワイマール体制の下で、ナチスが政権の座に就いた訳ですから、ひとたび熱狂が生まれれば、民意が暴走することだってあるわけです。そう考えると健全なエリートの養成についてもっと考えるべきではないかと思います。例えば政治家は官僚を叩き、疎外することで政治主導のパフォーマンスをするのではなく、官僚に国家のエリートとしていかに国のために働いてもらうかという視点で考えていくべきではないでしょうか。

この本を読みながら、偉そうなことを言ってみても自分自身がだんだんB層になっているのではないかという危機感を持ちました。楽な方に流されず、古典を読み、自分の頭で考える習慣を改めて身に付けていきたいですね。


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2014年9月25日木曜日

軍事を知らずして国家を語ることなかれ-『田母神戦争大学』



田母神俊雄氏は本日、衆議院議員の西村眞吾氏とともに太陽の党の再発足を宣言しました。田母神氏は、今年2月に行われた東京都知事選では、組織票がない中、ネットを中心の保守層の支持を集め、61万票を獲得したことは記憶に新しいところですが、いよいよ国政進出に向けて、具体的な一歩を踏み出しました。

さらに本日、田母神氏の50冊目の著書となる本書の出版記念パーティーが開催されました。出版記念パーティーという名目ですが、先行して太陽の党再発足の記者会見を終えていたこともあり、パーティーはさながら太陽の党の決起集会の様相でした。同じく本格的な保守政党である次世代の党とは緊密に連携を取りつつも、独自の活動をしていくということで、今後の活躍が期待されます。

本書は、田母神氏とかつての部下であり、現在も秘書官として田母神氏を支えてきた元空将補の石井義哲氏との共著で、防衛問題を中心に、両者の対談形式でわかりやすく、時には軍事に関する専門知識を織り交ぜながら解説されています。耳学問だけの専門家ではなく、航空自衛隊の要職にあった両者の対談ということで、大変説得力があります。田母神氏を批判する人々はあたかも田母神氏が好戦的であるかのように言っていますが、田母神氏の主張は、軍備を整えることで戦争を抑止できるという、国際社会の現実を前提としたきわめて真っ当なものだと思います。

防衛問題に関する誤った議論やその根底にある誤った歴史認識、そして安倍政権が目指そうとしているものについて理解する上で、本書はとても有益だと思います。


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2013年9月14日土曜日

戦争は想定外か?-『衆愚の病理』

以前にも触れた里見清一氏の『衆愚の病理』にこんな一節があります。
話はずれるが、「想定外」ついでに言うと、日本国憲法は戦争を「想定外」にしている。
こんな非常識なことはない。あの大震災の津波は千年に一度かもしれないが、戦争は世界でいつもやっている。現在進行形で、いつもやっていることを想定しないなんて、ありうるのか?
とても重要な指摘だと思います。確率論から考えれば、千年に一度の大地震より戦争が起る可能性の方が高いでしょう。日本は戦争をするつもりはなくても、他の国から攻撃を受けることだってありうるわけですから。

ところで、日本国憲法の前文にこんなことが書かれています。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
ここで、「平和を愛する諸国民」とは誰のことでしょうか?日本の周辺諸国を見回すと、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、台湾がありますが、台湾くらいはもとかく、それ以外の国に「公正と信義」を信頼することなんてできるでしょうか?

東日本大震災をきっかけに危機管理の重要性が強調されるようになりましたが、あらゆるリスクを想定しておくことが危機管理の出発点となります。想定されるリスクを洗い出した上で、費用対効果を考えながら対策を講じていくのが本来の危機管理です。

そうすれば国家の危機管理としては当然戦争を想定しておく必要がありますし、そのための備えとして軍事力が当然必要となります。しかし憲法第9条という、およそ非現実的な条文の呪縛のために、条文解釈を変えながら、これまで自衛隊という、これまた詭弁で固めた組織を拡充してきました。

東日本大震災での自衛隊の活躍によって、多くの人々から賞賛を受けることにはなりましたが、それまでの自衛隊の皆さんは、日陰者扱いで本当に苦労されたと思います。これまでもPKO活動などで海外に自衛隊が派遣されてきましたが、専守防衛という建前の下で、戦地に行きながら武器使用について大きく制限を受け、必要以上に生命の危険に晒されてきました。こんなことが許されて良いのでしょうか?

平和を唱えていれば平和になると考えるのは非現実的な理想論であり、思考停止状態にあると言えます。安倍首相には、これから期待される長期政権の中で、憲法改正を実現し、自衛隊の位置付けを現実に沿った適正なものにしていただきたいものです。


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2013年9月4日水曜日

「敗戦処理」はエースの仕事である-『衆愚の病理』

里見清一氏の著書『衆愚の病理』は面白い本です。著書は三井記念病院呼吸器内科科長という立場にありながら、医療を超えて広く社会問題に対して、時にはユーモアを交えながらも本音で痛烈な批判をしています。著者の主張のすべてに賛同できないまでも、社会的地位がありながらこれだけ批判を恐れずズバズバと言いたいことを主張できるという姿勢は素晴らしいと思います。

そんな中で、この本の第一章の「『敗戦処理』はエースの仕事である」はとても考えさせられる内容でしたので、紹介したいと思います。

まず、福島の原発事故に対して、ただ東電を非難したり、脱原発を主張したりする人達に対して、著者は痛烈な批判をしています。
私には、東電を今「批判」している人たちの中で、本当のその資格があるのはごく一握りではないかと思える。 
今、起こってしまったことを悔やみつつ、「敗戦処理」のための具体策を、あえていえば東電と一緒に呻吟している人たちだけが本物である。東電のコマーシャルに出た芸能人に至るまで戦犯扱いして、ただあいつも悪いこいつも悪いと言っているだけの奴は黙るべきである。もしくは一人で壁に向かって呪っていればよい。
原発事故の処理という敗戦処理は長期に亘る困難なものであり、脱原発を主張する場合、この敗戦処理の担い手の確保が非常に困難になります。
もちろん事故を起こした原発の処分ははるかに困難であり、おそらくは数十年単位の時間がかかる「敗戦処理」である。誰がこれをやるのか。 
何十年か先には消えてなくなる産業の後始末を進んでやろうという若者(これから大学に進もうという人間にとっては、働き盛りでその仕事が消滅することになる)がいるのか。 
脱原発とは、積極的に技術や資金を注ぎ込んで行う事業である。原発なくなれ、と言ったら勝手に向こうが消滅してくれるものではない。
ここがこの本の特徴でもあり、面白いところですが、話が脱線したところで著者の本音が随所に出てきます。
福島原発事故で最も口惜しかったことの一つは、中国に汚染国呼ばわりされたことである。(中略)お前らだけには言われたくない、と思ったのは私だけではなかろう。 
菅元首相は、その昔薬害エイズ問題で厚生省の責任を明らかにして謝罪したことも最大の業績にしているが、そもそも自分がやったことではないことを謝るのは気が楽である。それによって、おのれは良心的であることもアピールできる。私は別にあの決断自体をどうこう言うのではないが、ああいう、どう転んでも自分には傷がつかないことをその後の「売り」にする了見は、やはり卑しいと思う。 
そうした「敗軍の将、兵を語らず」の姿勢は、その実凡庸な頭脳が思考停止に陥っているだけ(思考停止する側はむしろラクになるであろう)の可能性が高いにもかかわらず、傍目からもまた当事者自身も「潔い」と勘違いしがちなところが、また余計に厄介である。
この後、医療問題についても、人間の死=敗戦と捉えると、医療の大部分は敗戦処理であり、病気を治す医者が格上で、患者の最期を看取る医者が格下と捉える風潮があると書かれています。さらにそこから終末医療の在り方や安楽死について問題を提起しています。

敗戦処理に関して言えば、誰もやりたがらない仕事でありながら、ここでの処理を誤ると大きな被害、損失が生じかねない重要な仕事です。だからこそエース級の有能な人材を充てる必要がありますし、同時にそのモチベーションを維持するための方策が必要となります。

福島原発事故に関しても、東電の幹部はともかく、東電の職員に方々に対しては気の毒にすらなります。もちろん、それ以上に福島で避難生活を送っている人は苦労しているという意見もあるでしょうが、今後ずっと給料は上がらず、ボーナスは出ず、世間からは冷たい視線を浴び続けなければならないとすれば、誰が東電で真面目に働こうと思うでしょうか?こうした東電批判の背景には、これまで殿様商売をしていて待遇が良かったことに対するひがみややっかみがあるんじゃないかと思ってしまいます。

敗戦処理の問題はこの本の一部でしかありませんが、中には民主主義を一時棚上げして政権を天皇陛下と自衛隊に託すべき、という突拍子もない提言もあるものの、建前論を排して本音で社会問題や医療問題について考えていて、一読の価値のある本だと思います。





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2013年9月1日日曜日

軽く流して読むのにちょうどいい「タモリ論」

笑っていいとも!が始まってもう30年以上になるんですね。

番組が始まった頃は、それまでのタモリのイメージって、どちらかというと深夜番組が似合いそうなちょっとアナーキーな感じだったので、昼の番組ってどうなのかなって、子供心ながらに思った記憶があります。

それが日本のお昼の顔として不動の地位を占め、お笑いのBIG3と呼ばれながらも、「たけし」や「さんま」と違い、いまひとつ強烈な個性が見えてこない「タモリ」という存在を、これまであまり意識をしてきたことはありませんでした。

この「タモリ論」という本は、著者がタモリへの「愛」「リスペクト」を好き勝手書いたもので、「論」というほど高尚なものではありませんが、今まであまり考えてもみなかった「タモリ」という存在の不思議さを気付かせてくれた、ぼくにとってはちょっと変わった本でした。

著者の言葉をかれれば、タモリが30年間お昼の生放送の司会を務めて気が狂わないのは、自分にも他人にも何ひとつ期待をしていないから、ということになります。そのため、著者は「タモリ=絶望大王」と呼んでいます。

また、赤塚不二夫氏の告別式でタモリが読み上げた弔辞が紹介されていましたが、とても感動的でした。タモリが芸能界に入るきっかけとなったのも赤塚不二夫氏からの誘いだったんですね。

また、吉田修一氏の『パレード』から、「わらっていいとも!」についての鋭い考察を引用しています。
「笑っていいとも!」ってやっぱりすごいと思う。一時間も見ていたのに、テレビを消した途端、誰が何を喋り、何をやっていたのか、まったく思い出せなくなってしまう。「身にならない」っていうのは、きっとこういうことなんだ。
日常の興味と違ったものに触れるという点では、こんな本もたまにはいいかなと思います。



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ナベツネ氏によるポピュリズム批判


ナベツネこと渡邉恒雄氏に対して、あまり良いイメージを持っている人はいないでしょう。メディアに登場すると不遜な態度で言いたい放題、裏では政治を動かすフィクサーといった印象が強いのではないかと思います。

この本は、ナベツネ氏による政治評論で、ポピュリズムを徹底して批判しています。当人に対する好き嫌いは別として、長年政治記者をしていただけあって、その文章は論理的に明快で、氏の教養の深さが窺われます。読売新聞のドンという立場を考えると、少々首を傾げたくなる主張もありますが、全体としては非常に質の高い政治評論だと思いますので、少し紹介します。

政治が何故、これほどまでに混沌としてしまったのか。その答えはポピュリズム、大衆迎合政治の蔓延にあると考える。 
私が見る限り、日本の国会議員は小選挙区制によって相当程度堕落してしまった。そもそも、現行の小選挙区には、例えば東京都の大田区や世田谷区のように、区議選の選挙区よりも小さいところがある。国会議員の選挙区が区議よりも小さいなんて馬鹿な話はない。
しかも、小さな選挙区で過半数を獲得するために、大衆受けしそうなことだけを言っておけばいいという風潮が政治家の間に広がってしまった。
確かに選挙区が細分化され、その中から一人しか当選しないとなると、天下国家を論じるより地元密着になり、しかもそのときのブームに乗った主張しかできなくなります。

どうしてこんなぶざまな政治になってしまったのだ。その一つの大きな転機が、小泉純一郎首相の登場だったように思う。 
小泉さんの政治スタイルは、いわゆるワンフレーズ・ポリティクス、「改革なくして成長なし」や「自民党をぶっ壊す」が典型的な例だが、国民大衆にわかりやすい印象的なフレーズを言うだけである。 
ポピュリズム政治に先鞭をつけたのが小泉純一郎首相だとすれば、さらにそれを推し進めて、正真正銘の大衆迎合政治を作り出してしまったのは、鳩山・管政権下の民主党である。 
例えば、民主党マニフェストにある「コンクリートから人へ」というスローガンだ。
悪しき民主党のスローガンはほかにもある。「脱官僚」と「政治主導」である。官僚を叩いて国民大衆の喝采を浴びよう、という魂胆がありありで、まさにポピュリズムの典型だ。 
それにしても、脱官僚・政治主導のスローガンは、日本の社会を本当におかしなものにしてしまった。このせいで、日本の頭脳集団といわれた霞ヶ関の官僚たちが、いかに正論を唱えても、その中身をじっくり吟味することなく、「官僚が言うことだから」という形式だけで忌避されてしまう風潮を作り出したからである。 
政治家でも学者でも、消費税増税の必要性を説けば「財務省に毒されている」といわれるし、原発再稼動を唱えれば、経済産業省とつるむ「原子力ムラ」の一味呼ばわりされる。これではまともな議論などできるはずがない。 
魔女狩りにも似た風潮を作り、ポピュリズムを一気に蔓延させた民主党の罪はきわめて重い。
テレビの映像とワンフレーズを組み合わせると、複雑なテーマも十分な議論がなされることなく、印象操作によって国民世論が形成されてしまいます。郵政民営化はその象徴でしたが、このとき小泉政権を支持した国民のどれだけが郵政民営化について理解していたでしょうか?

脱原発か否か、増税すべきか否か、TPPに参加すべきか否かといった議論は、本来であれば論点が多岐にわたり、それぞれメリット、デメリットを十分に比較検討しなければ結論を出せる話ではないですが、原発=悪、増税=悪、TPP=悪、といった印象をメディアの印象操作で植え付けられています。

また、この本では2007年に渡邉氏が画策した民主・自民の大連立構想についても語っています。こうした動きに対して、「密室政治」「談合政治」と批判する声もありましたが、ぼくはすべてを透明にすることなんてあり得ないし、大切なのはその結果だと思っていますので、こうした活動も必要だと思っています。

さらに、渡邉氏は大衆社会とメディアによる煽動について次のように論じています。
「大衆社会」が、十九世紀の社会形態と区別して認識されるのは、資本主義の発達とともに、機械技術が進歩し、生産力が飛躍的に増大し、産業組織が大規模に合理化された反面、人間が無定形名集合の中にほうり出され、人間と人間とを結びつけていた中世的な第一次的な絆が切断され、孤独や不安や無力感にとらわれる結果、非合理性を生み、衝動的、激情的な正確を濃くして来たからである。 
こうして、一方で、不安で孤独で、衝動的になっている大衆層の増大があり、他方で、少数者の掌中にいよいよ集中する高度の近代技術によって、管理組織は巨大化して、多数の大衆を自由に動かす機構組織が発達し、発達したマス・メディアは、不安で無力感にとらわれた大衆を支配し、操作するためのきわめて有効な手段となっている。 
この「改革派」という言葉が飛び出したときは特に気をつけたほうがよい。九〇年代の政治改革論議のときは「守旧派」、小泉時代は「抵抗勢力」というように、相手にレッテルを貼って真に必要な議論を封じるのは、大衆を煽動するデマゴーグの常套手段である。
新聞社のトップとして、テレビやネットといった競合するメディアに対しては次のように論じています。
 テレビニュースは優れた新聞の代わりにはらならないということである。国民がニュースの情報源をもっぱらテレビに依存するようになれば、民主主義の屋台骨が危うくなると言っても過言ではない。ニュースの対象としての人物や場所を動く映像で見せることができるという点で、テレビは他のメディアを寄せ付けない。しかし同時にテレビは、今の時代が直面している複雑な問題の輪郭を示しその全体像を説明するという点は不得手である。 
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、『責任を持って情報を選択する編集』が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。」(2011年1月10日付読売新聞朝刊)
 氏の主張に対しては賛否両論あると思いますし、読売新聞の自己弁護と言える部分もありますが、読売新聞のドンではなく、一人の政治評論家による政治評論と考えると、結構鋭いことを言っていますし、なかなか勉強になりますので、先入観を持たずに一読されることをおすすめします。



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2013年8月31日土曜日

1970年代から現代の日本に警鐘を鳴らした本です


この「日本の自殺」という本は、1975年に『文芸春秋』に収められた論文に解説を付けたものです。当時の日本はまだ高度成長による繁栄に沸き立っていた時期だと思いますが、この本は古代ローマの没落の原因から、当時の日本社会が内部的な要因によって自壊しつつあると警鐘を鳴らしています。そこで指摘されている問題点は、今読んでみても新鮮であり、本質的な解決がなされないまま、事態が悪化しつつあることがわかります。正直、はじめて読んだときはあまりにも現在の日本の状況を的確に予測したものであり、衝撃を受けました。もともとは1980年代の日本を念頭に置いて書かれたものだと思われますが、現在の日本が抱える問題の本質を理解する上ではとても参考になります。

まず、ここで分析のフレームワークとして援用されているのがトインビーの文明論ですが、本書の冒頭は、このような言葉で始まっています。
諸文明の没落の原因を探り求めて、われわれの到達した結論は、あらゆる文明が外からの攻撃によってではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅するという基本的命題であった。
次に、本書で指摘されている古代ローマの没落の原因を要約してみると次のようになります。
①ローマ市民は、次第に欲望を肥大化させ、労働を忘れて消費と娯楽レジャーに明け暮れるようになり、節度を失って放縦と堕落への道を歩みはじめた。 
②人口の膨張により市民団のコミュニティを崩壊し、一種の「大衆社会化状況」が古代都市ローマの内部に発生し、急速に拡大していった。 
③経済的の没落したローマ市民が「パンとサーカス」を要求するようになった。さらに、無償で「パンとサーカス」の供給を受け、権利を主張するが責任や義務を負うことを忘れたことで、恐るべき精神的、道徳的退廃と衰弱を開始した。 
④市民大衆が際限なく無償の「パンとサーカス」を要求し続けることで、経済はインフレーションからスダグフレーションへ進んでいった。 
⑤エゴの氾濫と悪平等主義の流行によって、衆愚政治に陥っていった。
今の日本を見ると、約20年間にわたるデフレに苦しんできたので、インフレの心配はあまりないようにも思えますが、財政政策による景気対策を重ねる中で日本の財政状況は急速に悪化し、社会保障制度は破綻しつつあります。そうした意味では、「パンとサーカス」という福祉政策によって、日本が経済的に自壊しつつあるという危機感は古代ローマと共通しているとも言えます。

しかし、経済的な問題以上に問題なのは、精神的退廃ではないでしょうか。本書の中で次のように指摘しています。
こうして、自制心、克己心、忍耐力、持続力のない青少年が大量生産され、さらには、強靭なる意志力、論理的思考能力、創造性、豊かな感受性、責任感などを欠いた過保護に甘えた欠陥青少年が大量に発生することとなった。
このように、戦後日本の繁栄は、他方でひとびとの欲求不満とストレスを増大させ、日本人の精神状態を非常に不安定で無気力、無感動、無責任なものに変質させてしまった。それはまた伝統文化を破壊することを通じて日本人のコア・パーソナリティを崩壊させ、倫理観を麻痺させ、日本人の精神生活を破壊してしまった。この生活様式の崩壊と日本人の内的世界の荒廃は、日本社会の自壊作用のメカニズムの基礎をなしていったといわねばならない。 
現代人にみられるこの思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向は、一体なにによってもたらされたのであろうか。実に憂慮すべきことに、驚くべき技術の発達、物質的豊かさの増大、都市化、情報化の進展と教育の普及など高度現代文明がもたらした恩恵それ自体が、このような精神状態を副作用として引き起こしていたのである。
 さらに、本書で指摘している情報化社会における情報汚染の拡大や教育におけるエリートの否定と悪平等主義といった問題も、十分今でも通用する内容であり、多くの示唆を与えてくれます。

社会の幼児化というテーマでは榊原英資氏の「幼児化する日本社会」も参考になりますので、本書とあわせて読まれることをおすすめします。



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2013年7月25日木曜日

『官僚の責任』 古賀茂明

『官僚の責任』 古賀茂明 PHP新書

この本は、官僚機構の内部にいた者の視点から、官僚の行動様式やメンタリティがわかりやすくリアルに解説されていて、官僚批判を喜ぶ人々からは受けがいいでしょう。

しかし、現行の官僚機構の弊害を取り除くための改革案として古賀氏が提示している成果主義への人事制度改革は、一昔前に民間企業でももてはやされたものの焼き直しで、運用面で課題があると言わざるを得ません。また、より根本的な原因は、政治家達が国民受けを狙って官僚をスケープゴートにしたり、都合の良いときだけ利用しようとすることではないでしょうか。

大臣が「全て自分が責任を取るから、正しいと思うこととどんどんやれ」と現場を信頼するだけでも、官僚たちがその能力を前向きに活用するようになるのではないかと思います。

そうした観点から見ると、古賀氏の官僚批判も従来からのステレオタイプの域を脱していないため、あまり建設的な提言ではないと思います。ただ、社会保障について「ちょっとかわいそうな人は救わない」という考え方は、現実を冷徹に見つめれば、正論であると評価できます。