2013年9月1日日曜日

ナベツネ氏によるポピュリズム批判


ナベツネこと渡邉恒雄氏に対して、あまり良いイメージを持っている人はいないでしょう。メディアに登場すると不遜な態度で言いたい放題、裏では政治を動かすフィクサーといった印象が強いのではないかと思います。

この本は、ナベツネ氏による政治評論で、ポピュリズムを徹底して批判しています。当人に対する好き嫌いは別として、長年政治記者をしていただけあって、その文章は論理的に明快で、氏の教養の深さが窺われます。読売新聞のドンという立場を考えると、少々首を傾げたくなる主張もありますが、全体としては非常に質の高い政治評論だと思いますので、少し紹介します。

政治が何故、これほどまでに混沌としてしまったのか。その答えはポピュリズム、大衆迎合政治の蔓延にあると考える。 
私が見る限り、日本の国会議員は小選挙区制によって相当程度堕落してしまった。そもそも、現行の小選挙区には、例えば東京都の大田区や世田谷区のように、区議選の選挙区よりも小さいところがある。国会議員の選挙区が区議よりも小さいなんて馬鹿な話はない。
しかも、小さな選挙区で過半数を獲得するために、大衆受けしそうなことだけを言っておけばいいという風潮が政治家の間に広がってしまった。
確かに選挙区が細分化され、その中から一人しか当選しないとなると、天下国家を論じるより地元密着になり、しかもそのときのブームに乗った主張しかできなくなります。

どうしてこんなぶざまな政治になってしまったのだ。その一つの大きな転機が、小泉純一郎首相の登場だったように思う。 
小泉さんの政治スタイルは、いわゆるワンフレーズ・ポリティクス、「改革なくして成長なし」や「自民党をぶっ壊す」が典型的な例だが、国民大衆にわかりやすい印象的なフレーズを言うだけである。 
ポピュリズム政治に先鞭をつけたのが小泉純一郎首相だとすれば、さらにそれを推し進めて、正真正銘の大衆迎合政治を作り出してしまったのは、鳩山・管政権下の民主党である。 
例えば、民主党マニフェストにある「コンクリートから人へ」というスローガンだ。
悪しき民主党のスローガンはほかにもある。「脱官僚」と「政治主導」である。官僚を叩いて国民大衆の喝采を浴びよう、という魂胆がありありで、まさにポピュリズムの典型だ。 
それにしても、脱官僚・政治主導のスローガンは、日本の社会を本当におかしなものにしてしまった。このせいで、日本の頭脳集団といわれた霞ヶ関の官僚たちが、いかに正論を唱えても、その中身をじっくり吟味することなく、「官僚が言うことだから」という形式だけで忌避されてしまう風潮を作り出したからである。 
政治家でも学者でも、消費税増税の必要性を説けば「財務省に毒されている」といわれるし、原発再稼動を唱えれば、経済産業省とつるむ「原子力ムラ」の一味呼ばわりされる。これではまともな議論などできるはずがない。 
魔女狩りにも似た風潮を作り、ポピュリズムを一気に蔓延させた民主党の罪はきわめて重い。
テレビの映像とワンフレーズを組み合わせると、複雑なテーマも十分な議論がなされることなく、印象操作によって国民世論が形成されてしまいます。郵政民営化はその象徴でしたが、このとき小泉政権を支持した国民のどれだけが郵政民営化について理解していたでしょうか?

脱原発か否か、増税すべきか否か、TPPに参加すべきか否かといった議論は、本来であれば論点が多岐にわたり、それぞれメリット、デメリットを十分に比較検討しなければ結論を出せる話ではないですが、原発=悪、増税=悪、TPP=悪、といった印象をメディアの印象操作で植え付けられています。

また、この本では2007年に渡邉氏が画策した民主・自民の大連立構想についても語っています。こうした動きに対して、「密室政治」「談合政治」と批判する声もありましたが、ぼくはすべてを透明にすることなんてあり得ないし、大切なのはその結果だと思っていますので、こうした活動も必要だと思っています。

さらに、渡邉氏は大衆社会とメディアによる煽動について次のように論じています。
「大衆社会」が、十九世紀の社会形態と区別して認識されるのは、資本主義の発達とともに、機械技術が進歩し、生産力が飛躍的に増大し、産業組織が大規模に合理化された反面、人間が無定形名集合の中にほうり出され、人間と人間とを結びつけていた中世的な第一次的な絆が切断され、孤独や不安や無力感にとらわれる結果、非合理性を生み、衝動的、激情的な正確を濃くして来たからである。 
こうして、一方で、不安で孤独で、衝動的になっている大衆層の増大があり、他方で、少数者の掌中にいよいよ集中する高度の近代技術によって、管理組織は巨大化して、多数の大衆を自由に動かす機構組織が発達し、発達したマス・メディアは、不安で無力感にとらわれた大衆を支配し、操作するためのきわめて有効な手段となっている。 
この「改革派」という言葉が飛び出したときは特に気をつけたほうがよい。九〇年代の政治改革論議のときは「守旧派」、小泉時代は「抵抗勢力」というように、相手にレッテルを貼って真に必要な議論を封じるのは、大衆を煽動するデマゴーグの常套手段である。
新聞社のトップとして、テレビやネットといった競合するメディアに対しては次のように論じています。
 テレビニュースは優れた新聞の代わりにはらならないということである。国民がニュースの情報源をもっぱらテレビに依存するようになれば、民主主義の屋台骨が危うくなると言っても過言ではない。ニュースの対象としての人物や場所を動く映像で見せることができるという点で、テレビは他のメディアを寄せ付けない。しかし同時にテレビは、今の時代が直面している複雑な問題の輪郭を示しその全体像を説明するという点は不得手である。 
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、『責任を持って情報を選択する編集』が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。」(2011年1月10日付読売新聞朝刊)
 氏の主張に対しては賛否両論あると思いますし、読売新聞の自己弁護と言える部分もありますが、読売新聞のドンではなく、一人の政治評論家による政治評論と考えると、結構鋭いことを言っていますし、なかなか勉強になりますので、先入観を持たずに一読されることをおすすめします。



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