この本は、前半部分はダライ・ラマ14世の「空の智慧」と題した講演録であり、後半部分は脳科学者の茂木健一郎氏との対談となっています。般若心経の解説本はこれまで何冊も読んできたことはありますが、なかなか「空」の概念を理解することができませんでした。この本に収められている講演は、般若心経の逐語解説ではなく、般若心経の教えそのものを、その背景となる思想から噛み砕いて解説されていたので、その分わかりやすかったです。気になった言葉を抜粋してみました。
そして、苦しみの因は外の世界にあるのではなく、自分自身の「行為」と「煩悩」であるため、苦しみを望まないのなら、苦しみの原因となっている自分の悪い行いと煩悩をなくさなければなりません。
仏教ではこのような理由から、「煩悩をすべて断滅して、苦しみのない永続する幸せの境地に至ることができる」と言われているのです。
二つの極端論の一つは、実在論であり、全ての対象物は実体を持って成立している真実の存在なので、永遠に変わることなく存在し続けている、という極端な考えのことを意味しています。そしてもう一つの極端論は、何も存在していない、と考える虚無論であり、この二つの極端な考えかたから離れて、どちらにも偏らない真ん中の道を行くのが「中観の見解」なのです。
そこで、空を理解する目的は何かと言うと、そのような実体をつかむ心をなくすことにあるのです。実体をつかむ心が起きないようにするためには、自分の心が見ている対象物には固有の実体がないのだ、ということを理解し、そのような実体に心がとらわれないようにしなければなりません。
このように、自分が執着したり、嫌悪したりしている対象はすべて、他の条件に依存して存在しているだけだということが理解できれば、全体的な見かたができるようになり、自分の考え方に大きな違いが出てきます。
ある現象が存在するのか、しないのかは、それを見ている心に正しい認識があるときだけ決められることなのです。
空とは、言葉として「空である」ということはできますが、空について心に確信を得るためには、否定対象を否定したときの空っぽの状態を思い浮かべるしかなく、これが空であると思う心を起すことはできません。
そして、空について何度も考えて瞑想し、空の理解がある程度進んでくると、実態のない「私」、つまり「私」という単なる名前のみによって存在し、現れているだけの、幻のような「私」が心に現れてきます。このようなとき、「私」は実体のない存在として心に現れているのです。
空を理解して、物質的な存在が究極的にはどのように存在しているのかを知ることによって、物質的な存在には実体がないことを理解すると、実体をつかむ心が起きてくることはなくなります。すると、間違った認識を持つことはなくなり、輪廻から自由になって、涅槃に至ることができるのです。
こうした考え方を理解し、物事に執着しなくなれば、あらゆる苦しみから解放されるでしょう。もちろん、世俗においては物事に執着し努力することで成長、発展していく面もあります。ただ、それが行き過ぎると物質的豊かさの反面、精神的に病んでいき、何のための努力だったのかわからなくなってしまいます。だからこそ、時にはこうした「空」について考えてみるのが必要なのだと思います。
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