2013年8月15日木曜日

予測不可能な世界だからこそ「哲学」が必要とされます。


「哲学」と考えるとものすごく敷居が高く感じてしまいますが、「ものの考え方」と捉えれば、ぐっと身近になってくるでしょう。
「想定外の世界」。人間の叡智は究極的には世界(これは自然と社会を含むものですが)を、把握し予知しコントロールできるはずだ、という思い込み。世界は想定外のことに満ち満ちています。今は、我々人間の叡智はすべてを想定し予知しうるはずだ、という傲慢から解放され、まず謙虚になるべきです。それは「哲学的思考」によって、自分たちの知りうる限界、なしうる限界を見据えることです。
これって、ソクラテスの言う「無知の知」ですよね。ここが哲学の出発点ということになります。
つまり、ものごとがうまく順調に進んでいるときは、「根本に戻って考える」なんていうことは邪魔なんだけれども、一体そもそも科学って何だったんだ、宗教、人間って何だったんだ、ということを問い直さなければいけない時代には、哲学的に考えることは逆にプラスになる。「そもそも、それは何だったのか」を考えることで、本質的なことが見えてきます。
現代はものすごいスピードで変化し、どんどん新しいものや概念が登場してきます。そんなときには、なかなか既存のフレームワークで捉えることが難しくなります。だからこそ、今こそ哲学的思考が必要とされているわけです。

この本の特徴は、単なる哲学の概念の解説ではなく、新しいテクノロジーの出現によって起こる出来事を哲学的思考で捉えようとしている点です。
 ところが現代では、デジタル・ネットワークの成立によって、すべての読み手が、すべて書き手になってしまった。つまり意見を享受するだけだった人達が、意見を公表する側にも回れる。だから、誰でも、もう、なんでも自由に発信することができる。あらゆる人が、基本的に書き手になりえるような構造になってしまった。
 ロボットは、人間とは何かというのを逆照射する形で見せてくれる、面白い存在であったわけですが、次第に人間の知能を超えた存在になっていくのかもしれない、ということです。
この話のように、結局、ロボットの研究をするっていうことは、人間とは何か、心とは何かを考えることにつながっていくわけです。そしてその問題は、デカルトやホップズなどにもつながる哲学的な問題なのです。
よく言われることかもしれませんが、1950~60年代のように、「国民がテレビを見るようになって、みんなで東京オリンピックを一緒に楽しみました」みたいな時代とは違って、今は、ある種世代を超えて楽しむべきものがなくなっています。大鵬が出ていた時代の相撲とか、王や長嶋が活躍したときの野球とか、力道山が出ていたプロレスとか、初期の紅白歌合戦とか、世代を超えて、みんなが一つのものを共有できる時代だった。それからどんどん分裂が進んで、現在では同じ話題を支えるものがほとんど消滅しつつあります。 
人々は同じ場所にいながら、まったく別の世界を生きている。場所や時間の同時性が、人の間の結びつきを意味しなくなっている。同じところにいても、まったく共通の話題がない、そんな事態がどんどん進んでいます。デジタル時代はこの状況を徹底化するわけです。 
大企業であれ、一つの投書や人々の意見のほうが、もはや強いということがありうる時代に変わってしまった。そういう意味で、少数の人物が多数の一般大衆を啓蒙したり、教育したりという非対称的な構造が、完全に崩れた、ということが言えるわけです。 
自由とか個人というものは、あるパラダイムの中で初めて成立するような概念なのだから、今、起っている変化がその枠組み自体を崩すような変化であるとすれば、かつて存在していた自由や個人というものは、新しいパラダイムの中ではそもそも意味を持たない可能性がある。そもそもそれが意味を持つのかどうかということ自体、疑問なわけですね。これは、見落としがちなことだと思います。 
ニーチェは一世紀前に、「読者の出現は書物を堕落させる」と言ったんだけれども、一世紀経ったら、すべてが著者になっちゃった。これは読者が生まれたときの腐敗より、はるかに恐ろしい腐敗になる、とも思われるわけです。 
確かに<ブログ論壇>によって生み出される<知>というものもあるかもしれません。しかし、デジタル世界の無料文化が、既存の情報インフラ社会に対するフリーライド(ただ乗り)によって成立している側面があるのど同様に、ブログ論壇の文化も<既存の情報インフラ>に対するフリーライド、という側面があることを感じざるをえません。既存に依存しながら既存を荒廃させる、あるいは、伝統に依存しながら伝統を荒廃させる、という構造を、インターネットの世界は持っていると思われるからです。
同じ時間を生きていても、価値観が多様化して、バラバラな感覚ってわかるような気がします。今の時代から見ると、「巨人、大鵬、卵焼き」と言っていた時代の日本人は驚くほど単純だったように思えます。だからこそ、時代を共有する一体感のようなものがあったのでしょう。

また、ネットの発達によって誰もが情報を発信できるようになりました。それは同時に公表されるものが玉石混交であり、また、コピペ文化によって、簡単にただで利用できてしまうことにもなりました。そうなってくると、文章というもの、あるいは情報というものに対して対価を払う意識がだんだん低下してしまいます。そうなると、論壇というものが経済的に成り立たなくなってしまいます。
非常に大雑把な言い方になりますが、神が最善に創ったはずの世界がこんなに悲惨に満ちているとすると、最善に創られた世界も神も素朴には信じられなくなる。「本当に神様だけにたよっていていいのだろうか?」。そうすると、頼るのは人間しかいなくなる。ここから人間中心主義がはじまるわけです。
もう1点、「フクシマ」が私達に示したことは、人間中心主義が生み出してきたテクノロジーが、今では人間の手に負えないほど巨大化、複雑化してしまったことです。
 もしもカオス研究が明らかにしたことが、世界の基本的なあり方だとしたら、人間が自然を操作し支配し予知し統御するって言う世界観、つまりハイデガーの言う「世界像の時代」は実はすでに崩れ去っていっている。これは、カオス研究という視点からも、あるいはリスク社会(つまり、リヴァイアサンとしてのテクノロジー)という視点から言えることだとおもいます。 
しかし、そもそも世界を知り尽くしコントロールするのがあるべき目標だ、あるいは、人間が神のような中心となって、世界を窮めつくしコントロールすべきだ、という人間中心主義の発想は、よく考えてみると、「知は力なり」としたF・ベーコン、「我思う故に我あり」としたデカルト、あるいは神の摂理に代わって人間理性が中心となる「リスボン大地震以後」あたりからの考え方に過ぎないのです。
 「哲学的思考」は、このような具体的次元にかかわるというよりは、そもそも、世界そのものと、世界に我々が貼りつけたフィルムとは別だ、ということの自覚からはじまるのです。我々が事実そのものだ、と思っている「世界」は、私達が事実だと思っている私達の「世界」に過ぎないということに気づくことです。
このような形で世界を捉えられるようになること。これこそが、私達が<自由に>生きることの最も根本的な気づき、なのです。
3.11のような悲惨な災害が起ると、神を否定し、人間中心主義が始まる一方で、「フクシマ」では人間中心主義が生み出したテクノロジーが人間の手に負えないことを露呈してしまいました。そして著者は「ニュートン的世界」の次に現れるのは「カオス的世界」だと言っています。

とらえどころのない世界を読み解いていこうとすれば、一人よがりの主張の前に、まずは先人たちの議論を振り返り、そうした人類の財産の上に新しいものの見方を構築していかなければならないと感じます。



人気ブログランキングへ

0 件のコメント:

コメントを投稿